アフリカ、亜細亜、欧州諸国、旧ソビエト連保、ロシア、アメリカ、そして日本。
古(いにしえ)から世界のどこかしらでその規模の大小を問わず、いつの時も戦乱の時代がありました。
世界の歴史は戦争の歴史と並行してると口にされる文化人の方もいます。文化技術の進化は戦争という行為があったからこそ向上された、文明が進化した。そう口にされる識者の方もいらっしゃいます。銃火器、航空機、戦車等、戦争に置ける重機器、また薬物の類。いずれも他者が他者を殺傷するための物です。その発明からその技術的な高まりが行われた。つまり戦争が無ければ世界の様々な技術的な物の進化、向上はあり得なかった。あくまでそれは仮説です。ですがそれは或いは真実その通りの事なのかもしれません。理由という起点があってこそその先に続く流れがあります。その起点が戦争のそれだというのなら、技術の進化の起点はまさにそうなのかもしれません。
ですが私はその事を、それに関する言葉を聞く度に懐疑的な想いになるのを覚えます。勿論、世界に置いてほぼその全ては競争社会であり、国の文化的な側面に置いてそのどちらかに上下が付く事は理解出来ます。国と国、思想、宗教、政治的施策、それらの考えの異なりから国と国が対峙し戦火にまで広がる事は何百年も前から世界のどこかしらであった事だと思います。だからといって戦争の是非を問われるならば、それを肯定する事はやはり私には出来ません。少なくとも日本人である私の想いからはそれが強固に譲れない物として明確に強い思いとして心にあります。
日本人として。そう記しましたが戦乱の世に置いて、唯一、日本のみが実際に在った事が、先ほどの否定の想いの根底にあります。それは、日本が全世界の中に置いて、唯一、核攻撃を受けた被ばく国だからです。
一部の人はこう言います。あの戦争であの時、核を使ったからこそ戦争が早期に終焉したのだと。ですがその代償は限りなく大きな物だったという事はニュース、また教科書等で幼い頃から知っていたそれは明確な事実です。
昭和20年。広島、長崎に落とされた原子爆弾。それにより多くの人々が死に至り、また現在でも当時の関係者の方がその時の凄惨な様子を語ってはその怖さを今の世に伝えてくれています。その語り部も時を経てこの世にいなくなるのですが。それでも記憶は記録として、この先も連綿と語り継がれていく事と思います。
現在も地球上のどこかしらで戦争の戦火は燃え盛り大きな被害を齎しています。戦争の決断をした国のトップではなく、なんの罪も無い一般の小市民が。幼い子供やその両親達がある日、突然、命の灯(ともしび)を消される事になる。それが戦争だと思います。幼少の頃から思っていた事がありました。銃を持ち、その引き金を引く前に、何故、対話での解決を世の人は考えなかったのかと。そう思う事は或いは、ただの理想論なのかもしれません。
ある人がこんな事を書いていたのを、とある書籍で読んだ事があります。それは、人がこの地上に二人以上いれば、必ず諍いが起こると。極論です。ですが物の道理とも思います。そして人は一人では決して生きてはいけない存在です。数多の人がこの世に存在し、その人の数だけ様々な才能がこの世には在ると思います。それ故に文化が生まれ、その進化を齎すのではないかとも思います。対話からの問題解決。人や物が滅する戦争という行為から技術の進化が生まれたという仮説の、それは対極の、個人的な一私見です。それはただの理想論です。現実は理屈とは関係なく動いてゆく物なのかもしれません。人に感情という物がある以上、理想通りに世の全ての人が一つの意見に肯定してくれる事も、また無いのかもしれません。
八月は日本の終戦記念日です。そして現在も各主要国は核配備をし、有事の際には決して押してはいけないスイッチをいつでも押せる体制になっています。日本に投下された核爆弾より何百倍もの威力のあるそれが。その数も数多のそれが。その事を考えた時、不安に押し潰されそうになる事もあります。
そしてロシア、中東、等で現在も戦火は上がっています。その余波がいついかなる形で日本にも関与されるか分からない現在です。最後に記します。願わくば恒久の平和を、それを心から願う者です。八月、一日。今年も暑い夏が始まろうとしています。