8月、一年を通して一番、暑い季節とされる夏が来ました。
もう何年も以前から言われていた事ですが、ここ数年は特に暑い時期です。地球温暖化の余波からかその暑さは近年、殊更に拍車がかかっているように思います。
街でたまに見かけるランニングをされてる方や、高校で部活をされてる学生さん達も、この時期、熱中症から突然、倒れる事があるといったニュースを聞く事も多いです。
ですが夏は夏ならではの楽しみも勿論あります。私の中では夏と言えば高校野球をまず思い浮かべます。春のセンバツとは異なり、各地域の地方大会で勝ち上がった強豪校が集い、その中の頂点を決めるために野球の聖地、甲子園へと集結し、野球という名のドラマを繰り広げます。試合の中で互いにしのぎを削り球児達が白球を追いかける様子をテレビから観戦するのが昔からの楽しみでした。関西に住んでいた関係で友人を誘っては甲子園まで観戦にいく事もよくありました。
球児達の甲子園に来るまでの練習の日々はまさにこの日のためだったのではないかと思います。人は何かしらの目的があるから、掲げた大きな目標があるから敢えて苦境の中にその身を投げ入れるのではないでしょうか。決して楽とは言い難い練習をひたすら継続するのではないかと第三者の自分などはそう思います。己が真に欲する目的を得るそのために。野球ではありませんが、私もスポーツの部活の経験者ですし、一時は毎日、堤防や公園を走るのが日課だった者です。汗を流し身体を鍛錬する事が好きだった少年時代でした。壮年の身を越えた今も、スポーツ観戦はジャンルを問わずに大好きです。その中でもやはりスポーツ人口の多い野球は見ごたえありの競技のように思います。ですが自分の身にも変化した事があります。昔は地元の学校や贔屓としていた有名校を応援していました。ですが今は地元の学校だけではなく、どの対戦カードの試合でも観戦したい思いがあります。どちらを殊更応援するという訳でもなく、試合そのものを応援したくなります。やはりそれは年齢的な物なのでしょうか。
そんな夏の醍醐味であり、日本の風物詩の一つでもある全国高校野球大会。個人的な意見ですが、プロ野球と高校野球の違いは試合後のユニフォームの様子と、試合中のエラーの有無だと私は思っています。バッターが半ば打ち損ねたヒットでも、選手は全力で一塁ベースへと走りヘッドスライディングをする事を、まるで躊躇する事なく厭わない。その結果がアウトであれセーフであれ、ベースに向かって走っている間は、おそらくそのバッターの胸中には、「ダメかもしれない」。そんなネガティブな感情は一片の欠片もなく無いのではないかと思います。無心、それ故の無限に近しい原動力。
ヘッドスライディング。プロではまずする事は少ないと思います。ですが高校球児達はなんのてらいもなくそれをする事が多いです。全力を振り絞り勝利を掴むそのために。結果、試合前には真っ白だったユニフォームは試合後には泥だらけになります。
それともう一つ。高校野球を見ていると、よくエラーをする選手を見かけます。プロ野球の試合の10倍はエラーをする事が多いように思います。それは技術の未熟さからのものだと思います。ですが、白球を追いかけるその真摯な熱意は、無色透明それ故に見る者に何かしらの強いシンパシーのような物が伝わるようにも思います。その二点が私の中の、プロ野球と高校野球との、見た目から感じた違いのように思います。どちらが上下という意味では決してなくです。
それと今の高校野球の全国大会では一人の投手の投球回数が制限されているようです。選手の体力維持、健康面を考慮しての配慮だと思います。昔のような先発完投勝利は、先発、中継ぎ、クローザーといった分担制が定着した現代野球の中では、遠い過去の物のようにも思います。
以前、読んだ雑誌で元巨人の投手、江川卓氏はこんな言葉を言ってました。「肩は擦り切れるもの」だと。その時、江川さんが仰った言葉は別の言い方だったかもしれません。ですが内容はそのような言葉でした。肩は、そして体力、精神力は有限の物であり、決して無限の物ではなく。投球を続ければ、肩は少しづつ摩耗、疲弊していき、いつか限界を越え擦り切れる。投げ続けていればいつか壊れるかもしれない物。勿論、それは野球に限った事ではないと思います。人間は生き物です。頑丈な機械ではありません。生身の体はコンスタントに休みを取り、またメンテナンスケアをしていかなければ、いつか朽ちてゆく物だというのは私にも分かります。
冒頭でも言いましたが、地球温暖化の影響なのか、ここ数年の夏の暑さは常軌を逸してると思います。高校生よりも更に若い幼少の子供は体育の授業中に数人、続けて倒れる事があるとニュースで聞く事があります。投手の分担制、投球数の制限はやはり必要な事なのかもしれません。球児の方の中には出来れば完投したかったです。そう涙ながらに、それでも微かに笑いながらその言葉を口にしていた方もいました。有限と無限の狭間。夢や希望、可能性は無限のそれでも、生身の体は決してそうではありません。明確にリミットのある、数値の限られた有限の物だと思います。
令和に入って吹き荒れたコロナ禍の中、春のセンバツ、また夏の全国大会が中止になった年もありました。スポーツが、特に野球が好きな自分にとって、春、夏の大きな祭典が中止になった時は本当に本当に残念に思いました。高校野球球児達にとっては、特に高校生活最後の夏を迎える三年生の無念さは推して知るべしの事と思います。その胸中は無念の想い、慙愧の念、刹那のそれだったのではないか。当時、その中止のニュースを聞いた時、自分の中ではそんな思いがありました。ですが当時の劣悪な状況を鑑みても、大会の中止は本当にどうしようもなく仕方のなかった事だったと思います。
コロナが分類的には五類のそれになり、インフルエンザと同じ括りになった今、感染者数が少なくなった事はとても喜ばしい事だと思います。勿論、この先も決して油断はできませんが、それでも甲子園の青い空の元、球児達が熱戦を繰り広げる姿を見れる事が、それを観戦できる事が野球ファンの一人としてとても嬉しく思います。
高校三年間という限られた時間の中で、果たして甲子園までいける球児達がどれほどまでにいるのか。その中でスターと呼ばれる『大器』は現れるのか。その事を灼熱の熱い日差しの元、期待せずにはいられません。
2023年、夏。球児たちのドラマは今、始まったばかりです。