最近、スポーツ観戦をよくします。大きな大会がここ最近、続いて行われていた事があり、スポーツ好きの身としては、つい時間帯が深夜枠であったとしても宵っ張りよろしく競技終了まで観戦し、そして最後の最後は概ね感涙します。いえ、時に号泣し頬に涙の痕を残しながら床に入る事も稀ではありません。
スポーツは勝負事です。多人数の競技であれ、一対一のそれであれ、どちらかが勝ちどちらかが必ず負けます。それはそれこそ絶対的なまでの絶対項目、必須の事象だと思います。すべからく皆が皆、競技の勝者になるため、常人には想像し得ない過酷な練習を日々、継続してます。勝つために、試合に勝利するために、勝つという自身の目的を達成するそのために。それは何も競技の相手に対してでは無く、携わる自分自身に対して心中、己に言い聞かせている事なのかもしれません。自分の最大の敵は他者ではなく何より自分なのですから。そして己が目的、自身のプライドを守るそのために自身を研磨しそのスキルを向上させる。競技という名の、ゲームという名の枠組みで。数多のスポーツの中で他者と対峙し勝者として生き残るそのために。負ける事から抗うそのために。
野球、サッカー、陸上、水泳、他の全てのスポーツ競技には数字が伴っています。それは点数であり、また時間であり、もしくはそれは長い年月なのかもしれません。百年以上、過去の先人が成し得た記録を誰一人破る事が出来なかった。それを百年という膨大な月日の後、その分野に特化した一個人が百数年ぶりに上回った事をニュースで聞く事がありました。その方は謙虚に先人を尊重し、更新された記録を光栄な事と口にされていました。また高校野球でも、ある有名校がまさに107年ぶりに夏の全国高校野球大会に優勝し地元のみならず、全国の多くの人たちから喝采を受けたニュースを、ごく最近、聞きました。その試合は運よくテレビ中継で観戦する事が出来たのですが。
陸上競技でもその競技の記録保持者は、時に別の誰かに記録を更新される事があります。日本で一番、速く走れるランナー。その文言は、見る者からしても心から賛美し拍手したい気持ちにさせられます。それは勿論、世界記録のそれならば尚の事だと思います。
スポーツは自分のためにする物だと思います。最初は趣味から始めたものが、次第にステップアップしプロの世界へ行かれる。その熾烈な世界の中で活躍し、日本の枠組みから飛び出し己の実力を試したいと思い、世界へ飛び立つ方も数多くいます。その皆が皆、周囲から必ずしも賛美される訳ではありません。ですがまずは行動を起こさなければ結果を出すことは不可能です。偉大な記録もまずは自分の決断からだと思います。その想いを試す事自体は、或いは比較的、安易に出来る事なのかもしれません。ですが誰しもが結果に結びつく事は出来得ない事だと思います。だからこそ生まれた特別な『結果』は、その『記録』は、その特別な『数字』は多くの人が語り継ぎ、後世まで残る物になるのかもしれません。100数年、破られなかった、あのベーブ・ルースの記録を更新した日本の大谷翔平選手のように。
スポーツから生まれた記録、その特別な数字は人の脳裏に長く残り広く世に伝わり、文章に残され、また他のメディアを通して、明確に記録として永遠に残る物だと思います。汗と涙の末に生まれた記録は多くの人の記憶として残り、後の世にまで伝えられ、いつしか伝説として語り継がれる物になるのかもしれません。それが誰しもが出来ない事だからこそ、生まれた記録には付加された大きな意味や重みがあり、それ故に多くの人に長く賛美される物になるのだと思います。
陸上競技である100m走の最高記録も、投打に渡ってプレイする選手の信じがたい記録も、100数年ぶりに優勝した高等野球の優勝も。
人はいつかその体躯は消えても、成し得た努力の結果は簡単には消えるものではない。最近のスポーツ観戦から、改めて自分はそんな事を思いました。周囲から自分が忘れさられる事はとても寂しい事だと思います。だからこそ人は他者の記憶に長く残るほどの『記録』を求め、スポーツに限る事なく何かしらの分野で走り続けているのかもしれません。それがほんの一握りの方だけの記憶であったとしてもです。少なくとも自分は、生まれたその証を何かの形で記したい、残したい想いがあります。それが決して安易な事でなくともです。これはそんな一個人のスポーツを基にした想いであり、身勝手な私的な雑文です。それでも『記憶される記録』とは人が生きた、まさにその証なのかもしれません。一秒、一生。できれば後悔のない時間を過ごしたい。そう思います。