気が付けばもう暦の上では11月。今年も残り二か月です。
コロナ禍の猛威が今ではだいぶ緩和されました。もうあれは過去の事だったのではないか?もしかしたら一時の夢だったのではないか?今ではそう思う事もあります。
元号が変わり令和元年のその年、世間は新しい時代の幕開けに大いに浮きたちました。その翌年にアジアで起こった小さな事件が、その僅かな事象だった筈の物に気が付けば世界全体が巻き込まれました。
世界は未曽有のパンデミックに陥り、未知のウイルスに翻弄され、世の中は凄まじいまでに凄惨な事態になっていきました。
多くの、本当に多くの犠牲者が出ました。医療の現場は崩壊寸前にまで追い込まれ、医師の方の中には遺書を懐にしたため現場にて仕事に従事されるといったニュースも聞きました。
今だから言いますが自分は人類はコロナに勝てないのではないか?もしかすると世界は滅亡するのではないか?
二年ほど前まではそんな不安要素に苛まれ、疑心暗鬼の想いを常に頭に置きながら日々の生活を送っていたように思います。
昔の小説にSF作家の小松左京さんが書かれた『復活の日』という作品がありました。それを元にした映画も公開されました。大昔の作家が今のこの現状を予知したのではないか?
そんな見出しで、ニュースや雑誌等で取り上げられていたのを覚えています。作品の内容はやはり未知のウイルスが世界に蔓延し、世界のほぼ全ての人類が死に絶え、
僅かに生き残った人類は南極にいる数十人のみだけに。そこから人類が『復活』へと向かうそんな物語です。
勿論、それは創作でありエンターテイメント作品です。ですが、その作品の世界観とその時の世界の現状とがあまりに酷似していたため話題になっただけの事と思います。
明治、大正、昭和、平成、そして令和と移り行き、人が暮らす日常の日々は時を刻む毎に常に変化していく物だと思います。文明は進化し人々の暮らしの様子も変わっていきます。
その中で事件、事故、そして自然災害といった物も勿論、あります。100年に一度のパンデミック。それは過去にも時の狭間ごとに大きな災厄としてあった事は教科書を通して知ってはいました。
令和のその年、人々は『それ』に当たってしまった。それはまさに運命と言うしか無い事のように思います。3年弱の間の災厄に関する出来事はもうはっきりとは思い出せませんし、正直、思い出したくもない事が殆どです。
大きなイベントや、不要不急な外出、大勢の人の集まりも危険とされ、半ば禁止状態になっていました。それを守らなかった場合は、まるで罪人と言われるかのように世間が攻撃する風潮だったように思います。
令和五年も終盤の今、コロナは分類的には五類のそれとなり、インフルエンザと同じ括りになりました。感染者数も大幅に減少しました。ホールコンサートなども復活し、必ず付けていなければならないとされた、マスクも今ではしている方もかなり減りました。
それ自体は本当に良かったと心から思います。ですが、新型コロナウイルスという未だ未知の存在は決して消えたわけではありません。神経質で心、弱き自分の過剰な懸念だけではなく、コロナの時代は終わった訳では決してないと私、自身は今もそう思っています。
勿論、過剰に不安になっても詮無い事だとは思います。この三年余りの間の中で自分が一番、教えられた事は、悲壮的な現状の中、感情が揺らげば揺らぐほど事態は更に悪循環に陥るという事だったと思います。
非常事態な時ほど冷静に。勿論、言うは易しの事です。ですが感情がマイナスに行き、焦り恐怖しそれを他人に向けても何も事態は好転しないという現実。故に過剰に恐怖する事なく、されど決して油断する事なく。そうして日々を過ごす事が何より最善なのではないか?
コロナ禍の渦中に教えられたそれは、多分さして間違いではないと思っています。年内もあと僅かです。コロナが発生し三年余りのその時間に五輪が行われ、そしてまた五輪が始まろうとしています。
ゆっくり焦らず冷静に。この数年のパンデミックの渦中を過ごした人間の一人として常に胸に留める事は、水鏡、水面が揺れる事なく心を持ってゆく事。それが何より安息を得るための近道なのではないか。2023年の末、自分は今そう思っています。
転回する未来はまだまだこの先も続いてゆくのですから。